ロッキ-神父と子ども達
カスパルの会報52号より
昨年フィリピンのスラム街での小学校完成報告に際し、建設資金が不足したために、借り入れ残金が出来てしまった報告を致しましたところ、大勢の方々より多額のご送金を頂きました。お陰様にてのし掛かっていた大きな不安から解放され私が助けて頂きました。本当に皆様有り難うございました。お陰様で借り入れ金は全額返済する事が出来ました。
そして約300万円が残りましたので、スラム街のお母さん達の職業訓練所支援に10万円・刑務所の子ども達救済事業費に20万円・ロッキ-神父の子ども達(モンテンルパ市に建設した、ストリ-トチルドレンビレッジ、)の為の養育費に200万円を送金致しました。
ストリ-トチルドレンビレッジは約3ヘクタ-ルで、子ども達の寮は10棟建設済みです。その内の1棟は女の子のためにカスパルが建設しました。少女たちは50名で後は全員少年達です。5,6才の子も含めて今、600名が保護され大切に養育されています。少年も少女も、路上に放置されたままになっていたのを、ロッキ-神父と、神父を助けているスタッフが真夜中とか、早朝に探し歩いて保護した子ども達ですが、中には、ドンボスコビレッジの事を誰かに教えてもらって遠くからトボトボ歩いて、探しながら来た子もいます。カスパルがまだリリュウの男の子のための寮を建設していたときに、イギリス人の父親に捨てられた少年が、遠いところから何日も掛かってロッキ-神父の所に来ました。その少年はリリュウの施設が大好きで私が訪ねるたびに側に来て、カスパル有り難うを何回も云っていましたが、今は立派な青年に成長し、ロッキ-神父の活動に参加しています。
1994年2月、私はマニラ市内をバスの停留所に向かって歩いていた時、大型ダンプやその他、引きも切らさない車のラッシュで舞い上がっている砂塵の道端に小学2,3年ぐらいの男の子が死んだように眠り込んでいて大人達が、顔をしかめながら、その幼い体をまたいで通り過ぎていました。目に止まった瞬間、本当に死んでいるのかと思いました。私は何を考える余裕もなくその子の側に駆け寄ろうとしたとき、同行して下さっていたシスタ-が私をつかみ、
「近藤さんやめとき、だめですよ、あの子をさわってしまったら最後、貴方がパニックになりますよ」「多すぎるんです。私たちにはどうすることも出来ないんです。可哀想だけど」
と仰ったのです。
はっとして我に返り辺りを見ると、あちらの路端にも、こちらの道端にも幼い子が死んだように眠っていました。私の顔はおそらく引きつったままだったでしょう、シスタ-方が、無理やり私を引っ張ってバス停にいきました。子ども達を助けることが出来なかった悔しさが後々まで続きました。この同じ時を前後して、25年間欧州方面に赴任し、最後にロ-マに赴任していたロッキ-神父が、神学校の学長に強く期待されて自国に帰られたのですが、マニラ空港よりドンボスコ、フィリピン本部修道院に帰る車中から、私と同じ光景を見て仕舞われたのです。極めて危険な車道の中で物売りをしている少年達、沢山の物乞いをしている幼い子ども達の姿を見て、「びっくりしてしまった」と仰っておられました。「25年間外国にいる間に、自分の国の子どもがこんな酷い事になっているとは、安全な修道院の中に居ることは出来ない、学長になることは出来ない、先ず子ども達を助けよう」と、とっさに決心したと仰っておられました。それから神父の大きな苦難の日々が、今も続いています。
私はそのあとネグロス島に渡り、農村を見て回りましたが、その酷さは想像を超えるもので、人間の暮らしとは言えないものでした。虐殺され続いている住民のために修道院から出て、マルコスの軍隊と戦っていた大勢の神父とシスタ-に対しても虐殺が続いていました。逃げて逃げて人間の住めるはずのない場所に身一つで逃げ、追いつめられた人たちが助け合い寄り添い合って生きておられたのです。この人達は元々貧しかったのではありません。マルコスとその仲間によって土地を奪われ、身内を殺害され、逃げまどっていた人達です。私はこの場所で幼い子ども達を救うことが先決となりました。マルコス軍の銃の餌食にされた大勢の神父とシスタ-方を、シン枢機卿は、聖職者の資格を剥奪して見捨てました。シン枢機卿はマルコスを諫めることが出来る立場にありながら、自分の役割を実行しませんでした。マルコスへのおもねです。聖職者が権力者におもねる事は最低の選択です。この時あちこちのゴミ捨て場に住み着いた人達を命がけで助け指導し、保護し続けたのがベルトレン神父でした。
私はどうしても路上に眠っていた子ども達のことが気になって、マニラ周辺で施設を建設するための土地を探しに行ったとき、偶然にロッキ-神父にお会いしました。私の計画を話し、持っていた計画書の図面をお見せすると、Frはびっくりされました。そしてご自分が作っておられた計画書と図面を見せて下さいました。そっくりでした。何だか分からないものを感じました。私はタガロク語が全く分かりません。路上に放置されている子ども達を一刻も早く、一人でも多く保護しなければならないとそんな焦りばかり強かったので、保護した後の子ども達の養育のことは何も考えていませんでした。当時、性虐待用と臓器移植の売買を目的にした地下組織があって、大勢の子ども達が路上から消されていたからです。カスパルが子ども達の施設を造るより、ロッキ-神父の計画を助けた方が子ども達にとって良い、それの方が早く、成功する確率が高いと判断しました。それ以降カスパルは皆様と共に、リリュウに3棟、モンテンルバ市に1棟、子ども達の寮をドンボスコストリ-トチルドレンビレッジに建設しました。
ロッキ-神父に育てられた子ども達の中から現在、ロッキ-神父のスタッフとなって、かって自分がさまよっていた路上に捨てられている子を見つけ、世話をする青年達が育ってきました。。子ども達は現在600名です。その内少女が50名です。この数は収容定数ではありません。施設は大きいので収容能力にはまだ余裕があるのですが、子ども達のための養育費が今のところ、この人数で限界なのです。Frロッキ-の苦しみがここにあります。
フィリピン政府は、路上で物乞いや物売りをしている子ども達の姿を外国人に見られるのは、自分の政治力の威厳に関わるとの考えで、ストリ-トチルドレン狩りを行ない、路上の子ども達を大人と同じ刑務所に入れてしまいました。刑務所に入れられた子ども達は、地べたにおかれた洗面器に、入っているご飯をみんなで、手づかみで食べているだけです。捕えられ集められた野良犬と同じ扱いを受けています。教育など論外で、閉じこめられた塀の中で男の子も女の子も、大人達の性的ななぐさみ物にされています。今も状態は変わっていません。Frロッキ-はこの子ども達を救いたいのですが、養育費が十分でないのです。私は一度日本大使館に掛け合いましたが、養育費を支援する制度はないと断られました。今回のように続けてカスパルが支援できたらと希望しています。私たちカスパルはロッキ-神父を助けながら、スモ-キンマウンテンのベルトレン神父の支援も行ないました。そして同時に、カリタスマニラの子ども達も支援してきました。タイの子ども達の支援も行なってきました。
その後モンテンルバ市の市長の強いご希望で、スラム街に小学校を3校建設することが出来ました。これは野田聖子議員のお力添えと、郷ひろみ様、皆様の深いご理解によって無事に完成しましたが、現地のフィリピンカスパルの代表、ア-ノルドサベドラ氏の大きな犠牲的精神に寄るところも大きかったのです。
3校目は特に難工事でしたがその上に、以前お知らせしましたように、原材料の高騰で予定の約3倍、建設資金をつぎ込んでやっと完成させることが出来ました。
昨年フィリピンのスラム街での小学校完成報告に際し、建設資金が不足したために、借り入れ残金が出来てしまった報告を致しましたところ、大勢の方々より多額のご送金を頂きました。お陰様にてのし掛かっていた大きな不安から解放され私が助けて頂きました。本当に皆様有り難うございました。お陰様で借り入れ金は全額返済する事が出来ました。
そして約300万円が残りましたので、スラム街のお母さん達の職業訓練所支援に10万円・刑務所の子ども達救済事業費に20万円・ロッキ-神父の子ども達(モンテンルパ市に建設した、ストリ-トチルドレンビレッジ、)の為の養育費に200万円を送金致しました。
ストリ-トチルドレンビレッジは約3ヘクタ-ルで、子ども達の寮は10棟建設済みです。その内の1棟は女の子のためにカスパルが建設しました。少女たちは50名で後は全員少年達です。5,6才の子も含めて今、600名が保護され大切に養育されています。少年も少女も、路上に放置されたままになっていたのを、ロッキ-神父と、神父を助けているスタッフが真夜中とか、早朝に探し歩いて保護した子ども達ですが、中には、ドンボスコビレッジの事を誰かに教えてもらって遠くからトボトボ歩いて、探しながら来た子もいます。カスパルがまだリリュウの男の子のための寮を建設していたときに、イギリス人の父親に捨てられた少年が、遠いところから何日も掛かってロッキ-神父の所に来ました。その少年はリリュウの施設が大好きで私が訪ねるたびに側に来て、カスパル有り難うを何回も云っていましたが、今は立派な青年に成長し、ロッキ-神父の活動に参加しています。
1994年2月、私はマニラ市内をバスの停留所に向かって歩いていた時、大型ダンプやその他、引きも切らさない車のラッシュで舞い上がっている砂塵の道端に小学2,3年ぐらいの男の子が死んだように眠り込んでいて大人達が、顔をしかめながら、その幼い体をまたいで通り過ぎていました。目に止まった瞬間、本当に死んでいるのかと思いました。私は何を考える余裕もなくその子の側に駆け寄ろうとしたとき、同行して下さっていたシスタ-が私をつかみ、
「近藤さんやめとき、だめですよ、あの子をさわってしまったら最後、貴方がパニックになりますよ」「多すぎるんです。私たちにはどうすることも出来ないんです。可哀想だけど」
と仰ったのです。
はっとして我に返り辺りを見ると、あちらの路端にも、こちらの道端にも幼い子が死んだように眠っていました。私の顔はおそらく引きつったままだったでしょう、シスタ-方が、無理やり私を引っ張ってバス停にいきました。子ども達を助けることが出来なかった悔しさが後々まで続きました。この同じ時を前後して、25年間欧州方面に赴任し、最後にロ-マに赴任していたロッキ-神父が、神学校の学長に強く期待されて自国に帰られたのですが、マニラ空港よりドンボスコ、フィリピン本部修道院に帰る車中から、私と同じ光景を見て仕舞われたのです。極めて危険な車道の中で物売りをしている少年達、沢山の物乞いをしている幼い子ども達の姿を見て、「びっくりしてしまった」と仰っておられました。「25年間外国にいる間に、自分の国の子どもがこんな酷い事になっているとは、安全な修道院の中に居ることは出来ない、学長になることは出来ない、先ず子ども達を助けよう」と、とっさに決心したと仰っておられました。それから神父の大きな苦難の日々が、今も続いています。
私はそのあとネグロス島に渡り、農村を見て回りましたが、その酷さは想像を超えるもので、人間の暮らしとは言えないものでした。虐殺され続いている住民のために修道院から出て、マルコスの軍隊と戦っていた大勢の神父とシスタ-に対しても虐殺が続いていました。逃げて逃げて人間の住めるはずのない場所に身一つで逃げ、追いつめられた人たちが助け合い寄り添い合って生きておられたのです。この人達は元々貧しかったのではありません。マルコスとその仲間によって土地を奪われ、身内を殺害され、逃げまどっていた人達です。私はこの場所で幼い子ども達を救うことが先決となりました。マルコス軍の銃の餌食にされた大勢の神父とシスタ-方を、シン枢機卿は、聖職者の資格を剥奪して見捨てました。シン枢機卿はマルコスを諫めることが出来る立場にありながら、自分の役割を実行しませんでした。マルコスへのおもねです。聖職者が権力者におもねる事は最低の選択です。この時あちこちのゴミ捨て場に住み着いた人達を命がけで助け指導し、保護し続けたのがベルトレン神父でした。
私はどうしても路上に眠っていた子ども達のことが気になって、マニラ周辺で施設を建設するための土地を探しに行ったとき、偶然にロッキ-神父にお会いしました。私の計画を話し、持っていた計画書の図面をお見せすると、Frはびっくりされました。そしてご自分が作っておられた計画書と図面を見せて下さいました。そっくりでした。何だか分からないものを感じました。私はタガロク語が全く分かりません。路上に放置されている子ども達を一刻も早く、一人でも多く保護しなければならないとそんな焦りばかり強かったので、保護した後の子ども達の養育のことは何も考えていませんでした。当時、性虐待用と臓器移植の売買を目的にした地下組織があって、大勢の子ども達が路上から消されていたからです。カスパルが子ども達の施設を造るより、ロッキ-神父の計画を助けた方が子ども達にとって良い、それの方が早く、成功する確率が高いと判断しました。それ以降カスパルは皆様と共に、リリュウに3棟、モンテンルバ市に1棟、子ども達の寮をドンボスコストリ-トチルドレンビレッジに建設しました。
ロッキ-神父に育てられた子ども達の中から現在、ロッキ-神父のスタッフとなって、かって自分がさまよっていた路上に捨てられている子を見つけ、世話をする青年達が育ってきました。。子ども達は現在600名です。その内少女が50名です。この数は収容定数ではありません。施設は大きいので収容能力にはまだ余裕があるのですが、子ども達のための養育費が今のところ、この人数で限界なのです。Frロッキ-の苦しみがここにあります。
フィリピン政府は、路上で物乞いや物売りをしている子ども達の姿を外国人に見られるのは、自分の政治力の威厳に関わるとの考えで、ストリ-トチルドレン狩りを行ない、路上の子ども達を大人と同じ刑務所に入れてしまいました。刑務所に入れられた子ども達は、地べたにおかれた洗面器に、入っているご飯をみんなで、手づかみで食べているだけです。捕えられ集められた野良犬と同じ扱いを受けています。教育など論外で、閉じこめられた塀の中で男の子も女の子も、大人達の性的ななぐさみ物にされています。今も状態は変わっていません。Frロッキ-はこの子ども達を救いたいのですが、養育費が十分でないのです。私は一度日本大使館に掛け合いましたが、養育費を支援する制度はないと断られました。今回のように続けてカスパルが支援できたらと希望しています。私たちカスパルはロッキ-神父を助けながら、スモ-キンマウンテンのベルトレン神父の支援も行ないました。そして同時に、カリタスマニラの子ども達も支援してきました。タイの子ども達の支援も行なってきました。
その後モンテンルバ市の市長の強いご希望で、スラム街に小学校を3校建設することが出来ました。これは野田聖子議員のお力添えと、郷ひろみ様、皆様の深いご理解によって無事に完成しましたが、現地のフィリピンカスパルの代表、ア-ノルドサベドラ氏の大きな犠牲的精神に寄るところも大きかったのです。
3校目は特に難工事でしたがその上に、以前お知らせしましたように、原材料の高騰で予定の約3倍、建設資金をつぎ込んでやっと完成させることが出来ました。
3校目の建設の時、日本大使館の担当者の凄まじい虐めにあって、ア-ノルドさんは胃が破れ大量に吐血し、2ヶ月間入院しました。
それで完成が2カ月遅れたのです。
「私が紹介した現地の業者をなぜ使わなかったのか」というのが、日本大使館担当者の大きな怒りでした。
しかし、 カフパル・フィリピンは、福祉施設を建設する為に消費税20%を免除されることを、フィリピン政府より認証されたNPO法人としての団体が設立した建設会社であり、 ロッキー神父・アーノルドサベドラ・近藤美津枝その他7名が設立発起人で、もっとも信頼出来る建設会社なのです。日本大使館の担当者の言葉に従い、紹介された業者に外注し、もしも手抜き工事などで、大きな事故があれば、その責任はカスパル代表の近藤美津枝が負うことになり、日本大使館の担当者が、責任を負うことはないでしよう。フィリピンの地で、数百人の子ども達が毎日、登ったり降りたりする階段や校舎が、安全で信頼のできる建設会社の工事でなくてはならないのです。
カスパルが外務省に建設工事助成金の申請書を提出する場合は、いつも、フィリピン政府より受理した認可書のコピーを添付しています。
日本大使館の担当者の言うとおり、他の業者に発注した場合、完了後フィリピン政府に20%の消費税を支払わなければなりません。 それでは何のために、カスパルが自前で現地に、建設会社を設立したのか意味がなくなるのです。
色んな事が沢山に有りました。予想もしない事が起きました。現地スタッフの皆さんは、くたびれ果てましたが、完成した小学校に子ども達の歓声が上がったとの事です。私は完成式に参加することが出来ませんでしたが、黒子絵巨さんの報告です。皆様、これまで沢山助けて下さって本当に有り難うございます。深い感謝と共に、以上ご報告申し上げます。